vol.36-⑦ 良い支援者になろうとするから虐待が起こる。
- 2022年03月01日
- 所長の学び
こんにちは。
イロハニトイロで所長をさせていただいている金村です。
Vol.36は金村の考える「障害者虐待」についての意見を11月からダラダラと書いてきました。
そしてそれはある一つのゴールに向かっています。
おそらく、今回を含めあと2回でそのゴールに行きつくことが出来ると思います。(たぶん)
しばらく続きが書けておらず、間がだいぶ空いてしまい申し訳ありません。
これまでのことを少し整理して本題に入りたいと思います。
障害者虐待の研修に出るたびに抱く心のモヤモヤを言葉にする、という取り組みから出発しました。
障害者虐待を起こしているのは、実は管理者(つまりこの僕)だと思うんだ。
障害者虐待を無くそう、より良い施設にしようと頑張ろうとする姿勢が虐待を生んでいくんだ。
それは、以下のような環境だと思うんだよ。
❶ 失敗すると責められる環境。
❷ ちょっとした不安なことを相談できない環境。
❸ 決められたとおりにやらないといけない環境。
❹ 他のスタッフに迷惑を掛けないようにしようという環境。
❺ みんなが同じ意見になろうとする環境。
❻ 上司が能力を評価する環境。
こんな環境が、本来心優しく慈愛を持った素晴らしい職員を虐待に走らせていく。
だからこれまでのやり方の間違いを認めて逆の事をやらないといないんじゃないのか。
それは、もっと管理者がダメで情けなくてポンコツでいること。
もっとみんなが弱さを出せること。
「能力」ではなく「存在」で人を見ることができる職場を作ることが大切なんだ、というお話しでした。
そして今回話したいこと。
それは次回のゴールに辿り着くためには避けては通れない、金村がしてきた虐待の経験のお話しです。
そうです。
僕は虐待をするような最低な人間なんです。
いや、ここで「最低な人間」というのはやめます。
「弱い人間」なんです。
(「弱い人間」とはどういうことなのか。それはこの回の最後に取っておきます。)
僕の虐待の経験は、患者さん(施設利用者さん)というよりも僕自身の子どもに対してのものです。
僕には4人の子供がいるのですが、
次男に僕は暴力をふるっていたんです。
感情的に暴れたり、言うことをきかない次男にカッとなってほっぺを叩いたり、つねったり、胸ぐらをつかんで部屋の外に放り出したり、時には玄関の外に出して見かねた近所の人が保護してくれるなんてこともありました。
まだ次男は3歳やそこらです。
本当に酷いですよね。
今でも僕はその頃のことを人に語ると涙が出てきてしまいます。
「大切な息子になんて酷いことをしてしまったのだろう」って。
そうなんです。
大きな声で怒鳴りつけたり、暴力をふるってしまった後には、とてつもない罪悪感に襲われていたのです。
とっても反省して、もっと良い父親になりたくて。
それなのにまた、カッとなってやってしまう。
そのたびにどんどん僕の自己評価も下がっていく。
こんな最低な父親は、必要とされない。愛されない。
ダメだ。ダメだ。
だからもっと良い父親にならなくては。
「こんな自分はダメだ」って自己否定の中で苦しんでいるから、どんどん心が狭くなってしまって、そしてまたイラっとしたらやっちゃう!
あ~~、もう何で?何で? 良い父親になりたいのに。
こんな僕は父親失格だ!
そうやって僕自身とても苦しんでいたのです。
そんなひどい父親なのに次男は僕ばかりに寄ってきて、その健気さが余計に僕の心を苦しくさせたものです。
僕がなぜこんなにも虐待をしてしまったのか。
勘のいい人はもうお気付きですよね。
もちろん背景には自分の母親に認めてもらえなかった過去の経験など、様々なものが関係しているんでしょうが、やっぱり一番の原因は、
“良い父親になろうとしていたこと”
だと思うんです。
「良い父親」= 価値がある
そして
僕の思う「良い父親」とは子どものことを温かく見守り、子どもに寄り添う優しい人でした。(理想像)
そんな父親じゃないと世間の人たちから認められない、妻から認められない、妻から愛されない。
そんな風に考えていたんだと思います。
では、そんな僕がなぜ虐待をしない人間に変われたのか。
そこを説明して今回は終わりにしたいと思います。
現在は末っ子に3歳の娘がいます。
もちろん末っ子ですから、みんなに可愛がられ、わがままし放題で大変です。
でも次男の時のように腹が立って怒鳴りつけ暴力をふるうなんてことはないんです。
どんなわがままも可愛くて、とっても愛おしくてたまらない。
暴力なんて必要ないし、昔では考えられないくらい楽しく子育てできているんです。
ってことは僕自身の気持ちや考え方が当時とは変化したということです。
その変化とは何かというと
“良い父親にならなくていい”
“こんな父親でも価値がある”
“間違ってて当たり前。間違ってたら謝ればいい”
と思えるようになったことです。
でもそれは一人で変われたわけではないんです。
そう思えるきっかけを与えてくれた人物がいるのですが、ここでその人物に登場していただきましょう。
それが僕の妻です。
(妻の事を出すのは恥ずかしいので少しだけの登場にさせてください)
虐待する姿を傍で見ている妻は、そんな僕にどうしたのか?
それは
ただの一度も僕を責めませんでした。変えようとしませんでした。
どうしたら虐待をしなくなるかの提案すらもありません。
(「提案」というのは、変化を求めることであり、それは現状への否定です。)
むしろ、虐待してしまって後悔している僕に
「大丈夫。私たちの子供はそんな弱くないよ。」と言い続けてくれていたのです。
つまり、虐待をしてしまう最低な僕すらも「大丈夫」と認めてくれていたのです。
その「(虐待してしまっても)大丈夫」という言葉が、僕を“良い父親”でいようとすることを手放させ、
自分の弱さに向き合えるようにしてくれたのです。
そうです。
僕の虐待の原因は
「弱さ」
なんです。
その「弱さ」とは何か?
決して勘違いしないでください!
「心が弱いから虐待をしていた」んじゃないんです。
「自分の弱さを認められなかったから虐待をしていた」んです。
ここの違いだったんです。
なぜ弱さを見せれないのか?
なぜこんなにも自分を誤魔化し嘘をつき虚勢を張って生きているのか?
頑張って良い父親、良い夫、良い支援者、良い人を演じて生きようとしていたのか?
それはありのままの(弱い)自分だと認められない、評価されない、愛されないと思い込んでいたからです。
前回までお話ししてきた職場の環境って、結局は、
良いあなたしか周囲から認められないよ、必要とされないよ、愛されないよ、
っていう環境なんです。
だから弱さが出せない、見せれない、怖い、不安。
多くの人が、
虐待をしていた時の僕と同じように「良い支援者」「できる支援者」「役立つ支援者」になろうとしている。
それが実は虐待を生む原因になっていると僕は思うのです。
同じ環境でも、虐待する人もいればそうしない人もいる。
同じ学校でも、いじめをする人もいればしない人もいる。
だから虐待もいじめも個人の問題が大きく環境が問題じゃない、と考える人もいらっしゃるかもしれません。
次回その疑問も含めて、最終の結論をお話しさせていただければと思います。
そしてそれが今回の「障害者虐待」のテーマのゴールとさせていただきます。
今回はとても長くなってしまいました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
イロハニトイロ所長
金村栄治