vol.23-② 自由ってとってもしんどい?
- 2020年11月26日
- 所長の学び
こんにちは。
Vol.23-① で「自由って本当にラクなのか?」ということについて話させていただきました。
「しなければならない」ということで縛られている不自由な生き方のほうが “実はラクなんだ” という、腹の立つようなお話をさせていただきました。
このブログは「所長の学び」として、金村がイロハニトイロの運営を通して学んだことを書かせていただいています。
イロハニトイロには明確なルールがありません。
みんな違う通い方をして、えこひいきだらけです。
そうするとどうなるか?
トラブルだらけです。
問題だらけです。
スタッフも、メンバーもとっても困ります。
自由であるが故に面倒なことがたくさん起こるんですよね。
でも、あえてそうしているんです。
それが、大切な事だと考えているから。
そんな環境だからこそ、得るものが大きいから。
そんな環境だからこそ人が変化し、成長すると考えているから。
でもでも、こんな環境を作るのってこれまでの僕の中では経験のない事だったんです。
だから、一番僕が不安だらけ。
本当にこれで大丈夫なの?
何か起こった時の責任を僕が負わないといけない。
きゃー、怖い!
そんな不安だらけの“未知の世界”だからこそ、イロハニトイロで巻き起こる全ての出来事が僕にとっては「学び」となっているんです。
これまでの職場(5個の職場を経験)は当然のことながら、ルールだらけです。
「しなければならない」ことだらけです。
そんな環境だから、何をすればいいかが明確だし、何かあっても上司や環境のせいにすればよかったんです。
ルールに従っていればよかったんです。
みんながしているようにできていればいいし、みんなの意見に合わせておけば大きなトラブルも起きなくて済んだんです。
不満や反対意見は心の中に押し込めて、表面上は笑顔を作り、陰で不満を言っていればよかったんです。
自分で何も変えようとせず「仕方ないんだ」「これが仕事なんだ」「我慢するのが大人だ」と自分に言い聞かせて。
本当は
傷つきたくない、
孤立したくない、
だけなのに、そんな本音は封じ込めて。
そうやって生きているから、頑張っているのになぜかいつもどこかで「不幸せ」を感じて生きていました。
僕は作業療法士なので、病院で働いている時は「作業療法室」というところで勤務していました。
当然ながら、作業療法室にはたくさんのルールがあるんですよね。
いろんな心の病気を持った方々が集まる場所ですから、トラブルが起きないように明確なルールを決めて「管理」していたんです。
扉に鍵をしているところもありました。
カッターやハサミ、針なども鍵を閉めて保管しています。
ルールを守らせることが「患者さんの社会性を養うことであり、リハビリにつながるんだ」という、決して疑うこともない確固たる価値観を持って。
今思えば
「どこが社会性やねーーーーーん!自分たちの都合だろーーーー!」
ですが(笑)
そうなんです。
ルールというのは大抵が、権力を持つ人間が自分たちの都合のいいように作られたものなんです。
だから、あえてイロハニトイロが出来た時に明確なルールを作ることはやめたんです。
秩序(ルール)は他者が押し付けて作られるものであってはならない。
秩序(ルール)はここにいる人たちで作っていくものだから。
秩序(ルール)は、環境や状況で変わっていくべきものだから。
だからこそ、この自由な環境が、イロハのメンバーにはとってもしんどいことなんです。
もちろん、スタッフにとてもとってもしんどいことでもあります。
イロハニトイロでは、
スタッフから「ああしなさい」「こうしなさい」と指図されないんです。
自分で選択しないといけません。
「仕事をしたいならしていいし、したくないならしなくていいですよ」
と言われてしまいます。
これだと、出来ない理由を他者に押し付けられません。
仕事をすると決めたのも自分、休むと決めたのも自分です。
他のメンバーの不満をスタッフに言ったら、
「そうなんですね。それは嫌でしたね。」
と話を聴いてくれるけど、何もしてくれません。
それどころか
「直接本人に伝えてみたら?」「喧嘩したけりゃしてみたら?(←口喧嘩ですよ)」
と言われちゃいます。
これだと、
自分がどうするかしかないです。
スタッフが自分に代わって解決してくれることもありません。
そのまま他メンバーに不満を持ち続けて悩むと決めるのも自分、
自分の思いを伝えてもることに挑戦するのも自分、
対話の結末がどうなろうと全て自分が選んだことです。
「しばらくイロハニトイロを休みます。」と言ったら、止められもしません。
「時折近況だけでも教えてくださいね。気にはしているから。」
と言われるだけです。
これも、同様です。
決めるのは自分です。
もちろん一生引きこもることを選ぶのもOKだし、それを決めるのも自分です。
これってとってもしんどいことだと思いませんか?
とっても過酷だと思いませんか?
そりゃ、こんなことしていたら、
トラブルや問題はたくさん起こるし、
イロハに来るのがしんどくなるし、
休みが続くとなかなか来られなくなるのも当然です。
こんなの支援といえないんじゃん!
ここは支援施設でしょ?!
就労のための訓練をするところでしょ?!
見守るんじゃなくて、放任しているだけで無責任なだけじゃん?!
スタッフもサボっているだけ!ちゃんと働けよ!
という声が聞こえてきそうです。
はい!
僕たちは、ここに通ってくださっている方々の支援をしています。
就労の訓練をしていると思っています。
責任なんて持ちたくても持てないことを自覚しています。
スタッフもとっても苦しく辛いです。
でも逃げずに向き合っています。
こうやって、もし何もしてくれないことに不満を感じる方はまだまだ受け身的な人生から抜け出せていないのかもしれません。
ダメな自分には価値が無いと思って生きていらっしゃるのかもしれません。
??????????
受け身的な生き方の方がラクだからです。
自分が傷つかなくていいからです。
ううん。たくさん傷ついていますよね。
でも本当の傷つきは避けられているんです。
それがvol.23-①の話です。
それではイロハでは何を支援しているのか?
それぞれの人たちが
「自分の人生を取り戻すこと」
を支援しています。
それはスタッフも同じです。
つまりそれは、
自分の人生を「主体的に生きる」
ということです。
自分が望む方を自ら選択し、行動し、そこで起こる出来事を受け入れ、その経験からさらに前に進んでいく。
自分だけの人生を自分の足で進んでいる事を実感しながら生きていく。
自分の人生の責任は自分にしか背負えない。
いや、他人に背負えるはずがない。
他人が代わりに自分の人生を生きてくれることなんてありえない。
だからこそ、他人がその人の人生の責任を肩代わりしない。
「この生き方が正解だ」と無責任な指図をしない。
だから、価値観が違うもの同士、対話をし続けていく。
協力し合っていく。
共感し、共鳴し、共存していく。
それがどうして就労支援なんだ?!
それは生き方の問題であり、就労支援なんかじゃないじゃないか?!
という疑問については、また別の回で説明をさせていただきたいと思います。
こんな苦しい環境の中で、人はどのようにして変わっていくのかについては僕の言葉ではなく、ぜひイロハに通うメンバー当事者の言葉を聞いてみてください。
以前に紹介した「メンバーブログ」として掲載しています。
まだまだ「自分のイロハでの変化を言葉にしたい」と言ってくれている方々がいます。
これから少しずつ紹介をしていきたいと思いますので楽しみにしていてください。
もちろん、もちろん、
こんなイロハの環境がしんどくて辞めていく方もたくさんいらっしゃいます。
長い間休んでいる方もいらっしゃいます。
自分に向き合うことがしんどくなる方もたくさんいらっしゃいます。
変わろうとして苦しんでいる方もたくさんいらっしゃいます。
怒りをぶちまけて辞めていく方だっています。
「大事にされていない」「構われていない」「気持ちを分かってくれない」って。
だから、きっとイロハはまだまだこれから成長していく必要があるんです。
金村も日々の出来事をありのままに受け止め、悩み、考え、成長中です。
先程出てきた「自由な環境はスタッフにもしんどいこと」について、気になりませんか?
これまでのブログに「スタッフの学び」として、様々なスタッフのあるがままの思いが綴られているのを読むとそのしんどさを知って頂けることと思います。
スタッフも同じで、みんな考えている事も人との関わり方も違うんです。
これが正解というものはないですし、先輩が後輩に教えるという関係ではなく、共に考え悩んでいます。
しかし、2つだけスタッフで共有しているルールがあるんです。
それは、
1.「怒る」「叱る」は使わない(対話する)
2.隠さないといけないようなことはしない(オープンにしておく)
ということです。
このルールの下で、感じた事や考えの違いを出し合いながら、答えの出ないやりとりを日々繰り返しています。
(この2つのルールの意味もいつか説明できればと思います)
「正解」や「することが明確」な方が僕たちスタッフもラクなんです。
悩まなくていいから。考えなくていいから。
でも、こんな環境だからこそ、スタッフも日々悩んでいます。
まあ、悩むことを楽しんでいたりもしますけど。。。
だから利用者もスタッフも、本当は違いなんかなくて、
自分を好きになる、主体的に人生を生きる、という課題に立ち向かっている「同志」なんです。
今回もまとまりのない文章を最後まで読んでくださりありがとうございました。
次回は、ぜひ僕の一番話したかったことをブログで書かせてください。
イロハニトイロだけでなく、訪問看護ステーションひまりでの経験からも学んだ
「人生を主体的に生きることの意味」
について話させていただきたいと思います。
余談
≪本当の「自由」について≫
せっかくなので、本当の自由の過酷さについて説明させてください。
精神科医アルフレッド・アドラーや哲学者イマヌエル・カントなどが同じことを言っています。
本当の自由が間違って理解されている、というのです。
私たちのイメージする自由は「自分で好きにものごとを選択すること」だと思っていますよね。
それでは、本当に私たちは自由に生きられているのか?
例えば、食べたいものを好きなだけ食べて、寝たい時に寝て、自分のその時の感情で行動することを本当に「自由な生き方」だといえるのか?
違います。
それは自由を間違って解釈しています。
例えば、「私はダイエットをしたい」と考えているとしましょう。
ダイエットは、私の「したい」ことであり、自分の自由選択によるものです。
ダイエットの為に運動や食事制限をしなければなりません。
すると目の前に大好きなチョコレートが出てきました。
あなたはそれを食べますか?
「食べる」を選択するのも「食べない」を選択するのもその人の「自由」なのではないか。
と思いませんか?
実はこれが違うんです!
だって私の自由の中での選択は「ダイエット」だったんです。
目の前のチョコレートを食べることは、その意思に反することです。
「食べない」という選択が「自由に生きている」ということなんです。
なぜなら、「チョコレートを食べる」ということは、その場の欲望に支配された行動ということになります。
本当は「食べたくない」し、食べた後に後悔します。
それは自由意思に反して、欲求に支配されて行動する「不自由な生き方」ということになります。
ギャンブルや衝動買い、飲み過ぎなどでもそのような経験はないですか?
「やめたいのにやめれない」「終わっていつも後悔」みたいな。
つまり、「本当の自由」とは、欲求の奴隷になることなく、むしろ欲求を自分の意思で押し返し、コントロールし、自分のしたいことを選択し行動することなんです。
本当の自由とはそれだけ過酷なことだということですね。
しかし、その先に手に入るものは、自分が本当に欲しかったものなんです。
そしてその「欲しいもの」が本来の純粋な欲求なんです。
こうして考えると
「自由に生きること」と「主体的に生きること」の繋がりが少し見えてきませんか?
このことを次回vol.24でお話しさせてください。
ありがとうございました。
イロハニトイロ 所長
金村栄治