vol.6 評価って何なんだろう?
- 2019年08月16日
- 所長の学び
僕は作業療法士という資格を持っています。
以前は10年以上病院の作業療法室で働いていました。
先輩や上司から言われることは、評価(アセスメント)の大切さです。
関わりを持たせてもらっている患者さんの評価が出来なければ適切な治療(リハビリ)は出来ないという指導です。
評価(アセスメント)というのは、この患者さんがどのような人かと観察し分析するいうことです。
作業能力は? コミュニケーション能力は? 生活能力は? 問題点は? 強みは?
いろんな項目でその方を評価していきます。
支援をする上でそれらのことが重要だと疑いようもなく信じてきたし、今でも評価の大切さは分かっているつもりです。
評価(アセスメント)の技術を高めることは絶対に必要なことだと思っています。
でも、でも、でもですね、
何だろうこのスッキリとしない違和感は?
心をかすめるような小さな違和感がいつもあったのです。
そして病院を出て、地域で働くようになってその違和感がさらに大きくなっていきました。
それはどんな時にはっきりと感じるようになったかというと、イロハニトイロに体験に来てくれる方について、他機関の専門職員からその方の評価を申し送られた時です。
特に作業療法士さんからそんなお話を聞かせてもらった時に、、、
あれ?何だろう?
僕も同じことしていたし、その作業療法士さんの評価はとっても重要な情報のかずなのに、、、
え?その情報今いらないや。
いやむしろ、聞きたくない。
と思ってしまったのです。
以前の僕なら、事前にいろんな情報を知っていたい。
知っているからより良いサービスを提供できると思っていたはずです。
それに評価を申し送らないのなら、他の機関と協力して支援しているとは言えない気もするし・・・
ここを利用しようとしている方の為を思ってという作業療法士さんの誠意ある行動なのに、聞きたくないと思うなんてとっても失礼な話です。
本当にすみません。
もちろんその方が、何歳で、どんな病気で、どこに住んでいて、なぜイロハを希望しているのかなど、ある程度の情報は必要なのですが。。。
それでは、僕のこの抵抗感、違和感は何なのか?
考えてみると、
まだ会ったことない人の情報を事前に聞いてしまうことで
きっとその人の事を色眼鏡で見てしまうような不安な感覚だと思うんです。
本当のその人が見えてこないような気がする。
それが僕の抵抗感、違和感なのかもしれません。
そして、もうひとつ。
自分が逆の立場だったらどうだろうかと考えてみるととっても嫌だなと思うんです。
僕は人によってきっと、僕という人間を使い分けているし、場面によっても使い分けています。
そして日々変わりながら生きているので、過去と現在も違うし、未来もきっと違う。
でもどれも僕という人間なんです。
昔、妻と大喧嘩をしたことを妻が「夫はこんなところがあるんです。あの人のこういうところに気を付けてください。」なんて職場に言われたら僕はとっても嫌だし、妻との関係と職場の同僚との関係は違うと思うんです。
そして何よりも目の前の人との関係を築いていきたいと思うんです。
他の施設では、トラブルの元になりやすい言動が目立ち、問題視されていた人が、イロハでは「可愛い人。面白い人」になっていたり、
暴力行為でトラブルを起こす人がイロハではそんな素振りすらみられなかったり、
入院中は多弁で他者との関係が上手く作れないと言われている人が、イロハでは「明るく元気な可愛い子」になっています。
また、自傷行為などで気を引くような行動で周囲をかき回す、と言われていた人がイロハではそういう行為がみられなかったりするのです。
環境が変わるだけで他機関の職員の評価とは全く違った姿になっているんです。
こういう姿を見ていると
どんどん僕の中で「評価」が何なのかということが分からなくなっていくんです。
誰の為の評価なんだろう?
患者さん(利用者さん)の為の評価?
それとも自分(職員)を守るための評価?
そして、その評価は本当に合っているの?
僕にとっての先生は当事者(利用者)の方々だと思っています。
だから僕は、この素直な疑問を利用者の方に尋ねてみるんです。
僕たち支援者と言われる人たちって、患者さん(利用者さん)の評価をするし、それを職員で共有したりするんです。
それを患者さんがいないところで話し合ったりするんですけど、そういうのってどう思いますか?
当然それは「あなたの為に良い支援を」という大前提があるわけだけれども。
きっと人によって答えは違うんでしょうけど
僕が尋ねた人は
「なんか嫌だな。」
「自分のことを決められているような気がする。」
「お前に私の何が分かんねんって思う。」
「型にはめられている気がする。」
「私に話して欲しい。私と話して私も納得していることを、他の人に言うのならいい。」
などさまざまな考えを教えていただきました。
うん、うん。
やっぱりそうだよな。
勝手に支援者の価値観で自分を見て、勝手に決めつけの評価をされて、それを他の人にも言われていたらなんか嫌だよなぁ。
すると、やっぱり僕は思うんです。
本当の評価をするのは “自分自身” じゃないのかなって。
自分が自分の評価をする。
そして「私ってこういう人なの」と話せる。
それが一番気持ちいいよなぁ。
なんかスッキリするよなぁ。
と思うのです。
それを一人では出来ないから共に考える。
それが支援者の役割であり、本当の評価のような気がするのです。
あれ?
これって何かと似てない?
今気づきました!
あ?
もしかしてこれが「当事者研究」というやつ?
「当事者研究」とは
「当事者」=病気を持った本人
が
自分のことを研究することです。
自分の説明書みたいなものを自分で作る作業のことです。
なるほどなぁ。
つながった!
先日知った「オープンダイアローグ」も同じようなことなのかもしれません。
これからも僕は「評価する」ということについて悩み続けるんだと思います。
ただ一方的なこちらの価値観を押し付けた評価にならない、
目の前の人と納得し合える評価ができることを目指していきたいと思います。