vol.49‐㉒ 支援者が障害を作っている!?
- 2024年09月10日
- 所長の学び
支援の方針を他人が決める(3)
どこに間違いがあったのでしょうか?
なぜ問題のある障害者に仕立て上げられていってしまうのでしょうか?
僕は2つの点が気になっています。
あくまで僕個人が考えていることです。
その1つ目が、
「本音が言えるだけの安心・安全の関係が無かったこと」
そして2つ目が、
「本人のいないところで本人のことを決めたこと」
前回もお伝えしたように、生きづらさを抱えている人の多くが「みんなと同じようにできていな私は間違っている、ダメな人間だ」という強い自己否定があるし、自分のことも信用できていません。
「自分なんて・・・」
と自己評価を低くすることで自分を守り何とか毎日を生きています。
だからこそ支援者の正しさに逆らえないし、
相手の求める答えを無意識に探してしまいます。
だってだって、これ以上傷つきたくないし嫌われたくない、孤立したくないから。
多くの人が「本音」って心を許した友人など、安心できる関係の中で言えたりします。
(顔が見えない、自分の事も知らないネット上の関係も安心の関係かもしれません。)
支援の現場で「本音が言えるだけの安心・安全の関係を作る」ってどうすればできるんでしょうか。
僕はずっとそれが分かりませんでした。
ずっと最大限、あなたに寄り添っている、安心を与えていると思い込んでいましたから。
でも、でも、でも!
私が“支援者”として関わり始めた時点で、既に支援者側には「正しさ」があるわけですから、もう既に不安を与えてしまっているのです。
既に安心から遠ざかっています。
そんな状態からどうやったら安心・安全を感じてもらえるようになるのでしょうか?
その方法はきっとたくさんあると思うのですが、
今回お伝えしたいことは、安心・安全の関係を作るのには「時間が必要」ということです。
そして
「“正しさ”の反対、“間違い”」が必要だということです。
???
支援者の「正しさ」が本音を言えなくさせているんですよねぇ。
それなら大切なのは支援者が「間違う」ということではないでしょうか?
もっと言うなら、その人(当事者の人)が間違うことを認めるということではないでしょうか。
僕も最近知った言葉ですが、「愚行権(ぐこうけん)」という言葉があるそうです。
愚かな行いをする権利のことです。
誰もがその権利を持っているはずです。
僕自身も恥ずかしいくらいに多くの間違いをして、多くの人を傷つけ、お金も友人も無くしてきました。
でもそれら全てが実は自分にとって学びとなっている。
自分の成長に繋がっている。
僕がこうやって現在幸せに生きられているのは、そんな自分を見放さずに見守り続けてくれる人がいたからです。
それが「本音を言える存在の人」です。
多くの人がそんな存在の人を持つことで私たちは心を安定させて(整えながら)生活できています。
でも精神障害になった人の多くがそういう存在を持てずにいます。
そんな方々への支援だからこそ
「この人(支援者)の前でも自分の思いを出しても大丈夫だ」
と思える安心の関係を作ることが求められていると僕は考えています。
「良くなりたいです」「社会復帰したいです」
の奥にある本当の思い(言葉とは反対のことが多い)に耳を傾ける必要があると思っています。
もっと言うなら、出来事や言葉にアクセスするのではなく、その裏にある「心にアクセス」することです。
「心にアクセス」するって意味わからないですよね。
例えば「親の事が大嫌いだ。親のせいで私はこういうことになった」という言葉の裏にある、
親に認めて欲しい願いや、親に見放される怖さ、誰かのせいにしたくなるくらい現状を認められない気持ちや社会への怯え、
などです。
でも私たち支援者は、
「どうしてお母さんの事嫌いなの?」
「それならお母さんと離れて暮らすようにしましょう」
「お母さんもきっとあなたのこと大切に思っているよ」
などなど、
また何かしようとしてしまいます。
説得しようとしたりします。
その嘆きに寄り添えない。
心よりも出来事(言葉)にアクセスしてしまう。
そんな支援者側の多くの間違いが、当事者の方とのズレを大きくし、障害者に仕立て上げていっている気がします。
今日は長くなってきたので、続きは次回にさせていただきます。
最後までお読みいただきありがとうございました。
イロハニトイロ所長
金村栄治