vol.38-⑦ 新たな世界の扉が開いた!
- 2022年05月16日
- 所長の学び
前回の続きになります。
訪問看護利用者Aさんとの喧嘩を経て、大きな“気付き”を得ることができました。
そしてこれまで自分を支えてきた知識や思い込みを全て捨て、新しく学び直す覚悟が出来た金村です。
そんな僕が、まず最初にしたことはこんなことでした。
僕が担当している訪問看護利用者さん全員に謝ることです。
なぜなら、僕に対して不満な態度を見せたり、訪問を拒否したり、担当を変えて欲しいと言うまでにしてしまったのは、実は僕だったと分かったからです。
本当の声を、その方々の心の声を聴けていない自分に気付けたからです。
(もちろんずっと聴けていると思っていましたよ。でもそうじゃなかった。ただの自己満足だったと気付けたんです。)
そうやって僕が心から謝罪することが出来た時どんなことが起こったと思いますか?
皆さん(担当利用者さん達)の本音が次々に出てきたのです。
「本音」って何かというと、金村への不満ということです。
少しその内容を紹介してみたいと思います。
Bさん
「金村さんて、私がしんどそうにしていると元気づけようとしてくれるでしょ?実はそれってすごく苦しんです。悲しい時は悲しい曲が聞きたい。悲しいのに楽しい曲を聴かされている気分になるんです。」
Cさん
「励まされるとまた頑張らないといけないんだなって思うんです。でもそれができないのに、って辛くなるんです。」
Dさん
「誰も本当の気持ちなんて分かってくれていない。自分の気持ち話してみて、って言うけど、話せば否定されるだけ。それなら話さないでおこうって思うんです。」
Eさん
「結局、医者も看護師も支援の人も同じです。欲しい答えがあるんです。それに沿った答えを探さないといけない。ウソをついて話すしかない。障害者を演じないといけない。そうするしかない。」
などなどです。
もちろんまだまだたくさんあります。
こんな思いを僕は利用者さんに感じさせていたんです。
そしてその方の本音を僕は聴こうともしていなかったんです。
いや、自分では聴いていたつもりでした。
もしかするといつも伝えようとしてくれていたのかもしれません。
分かって欲しい心の叫びがあったのかもしれません。
それを、僕の「あなたを良くしたい」という一方的な思いと「こうするといいよ」という正しさでありのままのその人を否定し、その大切な思いに蓋をさせてしまっていたんだと思います。
その人が欲しかったのは「正しさ」ではなく、「この苦しみを分かってくれること」だったのに。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
本当にごめんなさい。
ちょっとここで整理させていただきます。
(ここをちゃんと整理しとかないと分かりづらいと思うんです。)
金村が謝罪して回ったこと。
これは、様々な「正しさ」や「常識」という自分を守るための鎧を脱ぎ、
そして「知識」や「技法」という相手を変えようとする武器を捨て、
裸の自分で目の前の人と対等な立場で向き合えたということです。
そこから利用者さん達の本音が見えてきたわけです。
そして以前の僕が正しいと思い込んでいた支援で相手に伝わっていたことは、
「あなたは弱くてダメな障害者」
ということでした。
だってそうですよね。
「この人を助けたい」の裏には、
「かわいそうな弱者」として見下す金村がいるわけです。
「この人の役に立ちたい」の裏には、
自分の自尊心を満たすための手段として弱い人を利用している自分がいるわけです。
そして、
「この人を良くしたい」の裏には、
「現在のあなたはダメだ」と否定する金村がいるわけです。
病気になった今の自分を否定して苦しんでいる人に対して、
正義の衣を着た支援者が、「あなたの為」という印籠を掲げて、
ありのままのその人を否定していたわけです。
僕がしていた支援の真実は、
より自己否定(苦しみ)を強めていた
ということです。
その自己否定から生まれたのが「病気」だと僕は考えています。
その方を助けるためにやってきたのが「病気さん」です。
「もう頑張らなくていいよ。病気になったから許してもらえるよ。だってあなたは病気なんだから。」
って。
その病気さんを「悪」だとみなして、正義を掲げた支援者が退治しようとする。
そりゃ病気治らないわ。
つまりつまり、金村がしてきた支援は、
その人を異常な者、劣った者とみなし、自分との隔たり(障害)を大きくさせてきていた。
ということです。
だから、僕はこう強く思うようになったのです。
障害者を作っているのは支援者じゃないか!
って。
何が正義で何が悪かなんて分かりませんが、金村のこれまでの価値観が全くひっくり返った、
というのはこういうことです。
ここから「本当の自己肯定」というものが何であるのかの学びが始まるのです。
(世間でよく聞く、「頑張って成功して手に入れる自己肯定」はウソの自己肯定です。そんなのじゃない本当の自己肯定が人を本当の健康と本当の幸福に導くのです。)
そして、
病気を治すのは何なのか、ということが見えてくるのです。
病気がその人を助けるために現れたものだとしたら、どうすれば病気は治るのか。
いや、治るというよりも、いなくなるのか。
いやいや、病気を必要としない生き方に変われるのか、の方が的確なのかもしれません。
この気付きについても今後お話ししていきたいと思います。
というか、この話の最後に辿り着く内容だと思っています。
だからイロハニトイロは病気を治そうとしない。
支援しようとしない。
そこの考えに辿り着くのです。
あちゃー、また長くなってしまいました。
次回は、金村が考えを一変させたあと、訪問看護でどのような変化があったのかをご紹介したいと思います。
訪問看護2年目です。
第2章の幕開けです。(ってなんか物語みたいになってきましたね 笑)
その2年目の経験を経て、それを根拠にイロハニトイロの支援のビジョンが出来上がっていくのです。
今回も最後までお読みいただきありがとうございます。
イロハニトイロ所長
金村栄治