イロハニトイロ

vol.26 本当の「自信」とは?

こんにちは。

僕(金村)はよく、新しい気づきや発見があると、
「聞いて聞いて、こんなこと知ったよ」
「この本にこんなこと書いてあったよ」などなど、
いろんな人に話したくなる癖があります。

それは、スタッフにもイロハのメンバーにもです。(妻はあまり聞いてくれませんが…)

そうするのはきっと

自分が感動したことを一緒に分かち合いたい、

なんて思ってしまうからなんだと思います。


「あなたも感動するでしょ?!」「僕と同じくらいに感動して!」

くらいの鬱陶しい押し付けでもあります。


大抵は、自分の熱量程には相手は感動したり学んだりしない結果になるのですが・・・。



自己満足!
それでもいいですよね。



今回は「自信」と「絶望」について、の学びを「聞いて聞いて」です。

ついにブログでも金村の「聞いて聞いて」が出てしまいました。



今回と次回の2回に分けて「自信」「絶望」についてお話しさせて下さい。



僕は普段からこの二つの言葉について、

「みなさん間違って理解しているよ。本当の意味はこういうことだよ。」とお伝えしているんです。

でもまだまだ説明が下手で、相手の心に届かないことがよくあります。

その二つの説明が、“ある本”で見事に納得する形で説明してくれていたのです。

その“ある本”とは、

『「普通がいい」という病』泉谷閑示 著(講談社現代新書)

です。

皆さんはいかがでしょうか?

「自信」についてどのような理解をしていらっしゃいますか?

「自信」とは、
いっぱい努力して成功した先に得られるもの、


みたいなイメージはございませんか?

これは昔の僕が持っていた「自信」へのイメージです。

だからこそ、
他の人に負けないように、見捨てられないように、って必死になって頑張って頑張って、
そうやって自分に自信をつけようと僕はやっていたわけです。


でも、そんな風にして得られた自信は、なぜか一時だけのものなんですよね。

長く続かないんです。

だって、
成功して自信がついても、また新しい課題が見つかったり失敗して、簡単に自信をなくしたり、


あるいは


自分よりもっと優れた他の人を見て、
「自分なんてまだまだだ」と自信がしぼんだりしてしまうからです。


さらには、
自分の「自信」を保つために、自分よりできない人を作ったり、見下し批判するようなことを言ったりしていました。
(ホント嫌な奴ですね…)


常に誰かからの称賛がないと、自分の「自信」を保てなかったんです。


この頃の僕は、本当の「自信」が何なのかを知らなかったんです。



今の僕は「本当の自信」が何のかに気付けているつもりです。


それは、
これまでの理解とは逆のことだったんです。


必死に頑張って、成功して、他者から認められて得られるものではなく、

逆に

頑張らなくて、成功しなくて、他者から認められなくてもいい、

「このありのままの自分でも大丈夫だと思えること」

自分の中にある、弱い部分も情けない部分もダメな部分も、ぜんぶ受け入れた上で、


「こんな自分が自分であっても大丈夫だ」という自分への肯定のこと

が「本当の自信」だったんだと知りました。


だからまずは、自分を認め許す事、
つまり
「あきらめること(明らかに認めること)」から始まるんだよ、
というのが僕がいつも伝えていることです。



ここまでが、僕の本『あきらめてもいいんだよ』(リーブル出版)にも載っている事です。



いかがでしょうか?


うーーん。
なんとなく意味は分かるけど、そんな簡単に自分の事許せないし、ダメな自分を受け入られれない。


ありのままでいることが「自信」と言われてもなんかしっくりこない。


結局「頑張って自信を付けろ!」と言われるのが現実だし、



なんか理想論のような気がする。




そんな風に思われた方はいらっしゃらないでしょうか?

それでは、先ほど紹介した精神科医・泉谷閑示さんの本に書かれていた言葉をお借りして説明したいと思います(※原文ではなく、金村の言葉で書いています)

「自信」というのはね、「自らを信じる」って書くんですよ。


その言葉通り、自分を信じるってことですよね。


ところで「信じる」って何だろうね?


実はね、
信じることに根拠なんていらないんだよ。


神様を信じている人ってそこに根拠なんかないでしょ?


「神様の存在を示す科学的根拠を示せ。そうしないと信じない。」
なんてことはないの。


根拠なくても信じているの。

この私が、「神様を信じたい」から信じているの?


つまり自分の姿勢ということだね。


だから、自分のことを根拠なんかなくたって信じていいんだよ。


それでね、今のあなたが思っている「自信」は、相手から認められることだったりしない?


頑張って成功して、他者から認められて(褒められて)、
その上で自信がつくみたいな。


頑張って、成功しても他の人から
「なんだこれ?馬鹿じゃない。」
「こんなの意味ないよ」
「君はまだまだだよ」
なんて言われたら、
自信をつけるどころか、自信が無くなったりすることだってあるんだよね。


ということは、信じているのは何だろう?


あれ?

信じているのは「他人の言葉」だよね。
「他人の評価」だよね。


ということは、あなたは「他人を信じている」ってことなんだ。


これ「自信」じゃなくて「他信」だね。


もう一度聞くよ。


あなたは「自信」をつけたいの?

「他信」をつけたいの?


もし「自信」だと言うのなら、

根拠はないけど、今日から「私は大丈夫。これでいい。」って信じてみたら。


世界で一人のこのかけがえのない自分、
もうそれだけで十分価値は備わっている。

信じるに値する。

だから今日から少しずつでいいから自分を信じてあげてください。

みたいな感じです。

いかがでしょうか?

自分が信じて来た「自信」は、本当は他人を信じる「他信」だったなんて、何か滑稽じゃありませんか?

そして、
普段からどれだけ自分を自分が粗末に扱っているのかに気付かされます。

自分が自分を大切にしてあげられていない。

信じてあげられていない。

「お前(私)なんて価値が無い」と自分が自分を傷付けている。

もしかすると本当の自分の人生のスタートは自分を信じることから始まるのかもしれませんね。

このブログを読んで何か感じるものがあれば幸いです。

次回は「絶望」について「聞いて聞いて」です。

こちらも面白いので、ぜひご興味があれば読んでください。

         イロハニトイロ 所長

               金村栄治

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