vol.17 虐待防止という虐待?
- 2020年04月23日
- 所長の学び
これまで、イロハニトイロを運営していく中で学んだことを
「所長の学び」としてブログに書かかせていただいてきました。
今回の内容については、こちらに書くのはふさわしくないんじゃないだろうか?
個人のSNSなどに書くべきなのでは?
と悩みもしたのですが、
「うん。これもイロハを利用する方々やスタッフとの対話から学んだことだ。隠さずに表現しよう!」と思い書かせていただく事にしました。
これまで「障害者虐待防止」の研修をいくつか受けてきました。
とても勉強になると思いながらも、どこかモヤモヤとしていて、納得がいかないことが僕の中で膨れ上がってきたのです!
そのことについて話させていただきます。
僕の感じるモヤモヤ。
それはvol.15でもお話しさせていただいた「職員」と「利用者」という無言の空気に漂う上下の関係です。
「職員」が上で「利用者」が下。
「職員」が強者で、「利用者」が弱者。
「職員」守る側で、「利用者」が守られる側。
「職員」が与える側で、「利用者」が与えられる側。
もっと言うと
「職員」が正しくて、「利用者」が間違っている。
「職員」が正常で、「利用者」が異常。
のような、、、。
決して言葉にしないし、職員はそんな風に意識もしていないのかもしれません。
でもどこかに漂うこの空気感。
気のせい?
被害妄想?
ううん。そんなことありません。
やっぱり僕の中にもそんな意識があったはずなんです。
「正義」や「愛」を掲げて、患者さん(利用者さん)を苦しめてきた。
僕の正しさが、優しさが、目の前の患者さん(利用者さん)を苦しめてきたのです。
(※病院でずっと勤めていたので「患者さん」。今は「利用者さん」)
これは紛れもない事実です。(詳細はvol.14をご講読下さい)
こんな僕の間違いを、患者さん(利用者さん)たちが教えてくれたのです。
そんな今の僕だから、感じること!
それが
「障害者虐待防止」が虐待になってしまっているかもしれない、
ということです。
僕にはそう感じてしまうことがある、ということです。
誤解がなるべく無いようにもっと詳しく言うわせていただくと
「障害者虐待防止」の本来の目的を間違って捉えてしまい、
「正義」を掲げてやっていることが、意図しないところで結局目の前の人を苦しめている、そんな結果を生んでいないか、ということです。
(※決して「障害者虐待防止」の視点や研修が良くない事だと言いたいのではありません。)
これまでの悲惨な障害者に対する虐待事件のことを聞くと、とても憤りを感じるし、それらのことを防いでいかなければならない。
同じことが起こるような世の中にしてはならない。
自分がその当事者になってはいけない。
だから、その為にも「障害者虐待防止」についてもっともっと考えることが必要だと思っています。
しかし、僕には
「障害者虐待防止」の研修を受けていて、未だに納得できないことがあります。
それは
「当人(施設利用者)は、その行為が虐待だと思っていなくても、職員の関わりが、周りから見て度を越した酷いものと感じるものであればそれは虐待だ」というものです。
例えば、
知的障害のある利用者さんと「遊び」としてチャンバラごっこを職員がしていた。職員が利用者さんの頭を何度も叩いている(もちろん傷つかない柔らかいもので)。
利用者さんも楽しそうに笑っている。
それを周りの人が見て、ちょっとやり過ぎなのでは、と思えば虐待の事例になりうる。
ということなんです。
頭では分かるんです。
そういう所に職員は意識を持たないといけないし、
「あ、もしかしたらこれも虐待なのではないか?」
「相手は楽しんでいるように見えるけど、もしかすると傷ついているかもしれない」
「最初は遊びのつもりがどんどんエスカレートしていってしまわないか?」
としっかり細かなところに意識を向け、ブレーキをかけるという意味で声を挙げるのは大切なことだと。
気になった時に、見て見ぬふりをするのではなく、周りの人間がしっかりと声を挙げて、虐待に繋がる芽を摘んでおかなければなりません。
だから、頭では大いに分かってはいるんです。
そして、とっても頭では納得するし、自分もしっかり自分を客観的に見られる力を付けようと思ったりもするんです。
なのに
なぜか心が納得しないんです。
???
???
ここからなんです。
僕の心をモヤモヤとさせるのは。
「障害者虐待」にならないようにと過度に気を使い過ぎることで、人間関係がどんどん希薄で機械的になっていっている気がするんです。
そんな危険性をはらんでいると思うんです。
これは本当に合っているのか?
本当に虐待防止といえるのか?
呼称を「〇〇さん」で統一しよう!
とか
「です。」「ます。」を使おう!
とか
利用者さんへの関わりを統一しよう!
とか
虐待に繋がるような事例があればスタッフ間で話し合おう!
とかとか。
一見虐待を防止するための良いことの様に思えます。
でも、
こういうことを繰り返す中で
どんどん、「職員」と「利用者」の隔たりや上下関係が強くなっている気がしてならないんです。
また職員自身が、
「上司に叱られないようにしよう」
「目立ったことをしないでおこう」
「余計な事はしないでおこう」
「仕事と割り切って最低限のことだけしておこう」
というような意識を作っていってしまわないか、そんな気がするんです。
そうすると、どんどん利用者さんがモノのように扱かわれていく感じがします。
さきほどお話しした「当人は虐待だと思っていなくても、周りから見て度を越したものだと思ったらそれは虐待に当たる」ですが、
見方を変えると、
「“当人の思い”よりも、“その行動・言動”に問題がある」
ということです。
「当人の思い」が重要視されていません。
それでは、
「障害者虐待防止」が間違って理解されて、
「職員が、利用者やその家族から虐待だと訴えられたり、責められないような行動をしよう。その行動が正しいのであれば、相手(利用者さん)が悲しんでいるかどうかなんて関係ない。」
ということになります。(※少し乱暴な言い方ですが)
ここが僕はとっても怖いと思うんです。
どんどん職員側からの考え、視点に偏っていってしまっています。
「相手の立場になって考える(共感する)」が大事だと言われる仕事のはずです。
それが、どんどん職員が自分を守ることばかりに重点が置かれていっている気がしてならないのです。
表面上は
「利用者に虐待という不利益を被らないための正義や愛に基づいたもの」
としながら。
この、見えない空気感のような希薄な人間関係を作ることが怖いし、支援が相手を苦しめることになってしまっているのではないか。
相手をモノのように見る姿勢が虐待の芽を作り出しているのではないか。
表面上をキレイにしているだけで、中身は変わらないどころかもっとひどいことになっているのではないかなのではないか。
そんなことを考えてしまうのです。
関西人の
「お前アホやなぁ」
が愛情に感じる人もいれば、バカにされたと感じる人もいる。
でも、この言葉は相手をけなす汚い言葉だから、使わないようにすべき。
としたら、
それは安易な考えだし、なんかおかしい気がするんです。
愛情に感じるのか、侮辱に感じるのかは、その人との関係性だと思うんです。
それじゃあ、
行動や言葉をキレイなものにする前に、目の前の人との関係を深めることの方が重要じゃないでしょうか。
目の前の人と私が、双方が納得する幸せな関係を築く努力が必要なのではないか。
相手が傷ついたことを感じとる力が大切だと思うんです。
どれだけ綺麗な言葉も、相手に伝わらなかったりします。
少し汚い言葉でも、思いを乗せている言葉は不思議と相手に伝わります。
それが私たち人間がこれまで育んできた、いやDNAの中にきちんと組み込まれた共通の感覚だと思うのです。
人とモノが関わっているんじゃない。
人と人が関わり合っている。
それなら僕が出来る虐待防止、イロハニトイロができる虐待防止って何なんだろう?
それは、
「金村のあの言葉で傷ついたよ」
「金村のあの言葉が私は納得がいかない」
「今の金村の態度で私は苦しんでいる」
そんなことを言ってくれる関係を築く努力をし続けることだと思うんです。
それは、どんな相手の意見もまずは受け止めてみる。
「正しさ」や「常識」を持ち出さない。
相手と闘おうとしない。
相手を言い負かせようとしない。勝とうとしない。
解決しようとしない。
自分を守ろうとしない。
そういうことだと思います。
これまでの長い文章を読んでいただき、
「それは金村の個人的な考えだろ!何も学びでも何でもないじゃないか!」と思う方もいらっしゃるかもしれません。
でも実はこれらは、利用者さんから教えていただいたことなんです。
利用者さんの言葉のお陰でこのような考えが深められたんです。
実は、
少し前までの僕は「障害者虐待」について浅い考えしかしておらず、どこか他人事でしたし、
「虐待なんて普通に関わっていて、相手を尊重してたらするはずないやん。」
って軽く思っていました。
そして、
「まあ、形だけでも虐待防止に取り組んでいる感じでいいのかな。」なんて思って虐待防止センターの方に「出前講座」をお願いしたりしていました。
利用者さんに「障害者虐待」について講義をしていただいたのです。
そしてそして
そこで出てきた利用者さんの抵抗感にとても驚きました。
講義をして下さっている先生に、「それっておかしくない?」とどんどん質問し、
講義終了後には、利用者という立場だから感じる本音がいくつも出てきたんです。
その言葉を以下に挙げます。
↓
「障害者ってすごく弱い立場なんですね。そんな風に見られてしまうんですね」
「『本人が虐待だと感じていなくても周りからそう見えれば虐待』ってやっぱりおかしい気がする。そうなってくると、虐待にならないようにって職員が過度に気を使って、どんどん関係が希薄になってきますね。その方が辛い気がするけど。」
「結局、みんな障害者は弱くて立場の低い存在として、蔑んで見ているんやろうね。そう見られていることが苦しいし、悲しい。」
「利用者も職員も対等な関係でいられれば、虐待だのどうのこうのなんて出てこないのに。」
「『虐待しない事』に気を配り過ぎるとなんか良くない気がする。」
などなど。
講義中も、その内容を揶揄するように
Aさん「それなら俺、毎日金村に虐待されてるわ。ははは(笑)」
金村「それなら、僕だってAさんに怖い言葉で脅されている。虐待ですわ。(笑)」
と笑って言い合う場面もありました。
こんな風に、言い合える事。そんな関係を作っていくことが僕は大切だと学ばせてもらったのです。
僕は、こんな風に考えています。
僕という人間が存在するだけで、きっと誰かを傷付けている。
でも同時に誰かの役にも立っている。
僕の言葉が、僕の意図とは反して誰かを傷付けている。
しかし、言葉を発しなければ伝わらない事がたくさんある。
僕の優しさが相手には迷惑なこともある。苦しめているかもしれない。
しかし、それに助けられる人もいる。
そこを自覚することが、虐待防止に対する職員として持っておくべき姿勢だと思うのです。
少しまとまりにかけますが、最後までお読みいただきありがとうございました。
このブログで、誰かを傷付けているかもしれません。
その時はぜひご批判の言葉をお願い致します。