vol.47 イロハニトイロは宗教か?
- 2024年01月22日
- 所長の学び
vol.46の終わりに「イロハニトイロは宗教と思われている」ことについて話させていただいたのですが、もう少し深く言語化しておきたいと思い書かせていただきます。
(なんか面白いお話だと思ったので)
イロハニトイロって噂で聞くに、他の施設の支援者の方からするとおかしな場所に映るようです。
そして、「イロハニトイロは宗教」だという表現までしてくださっているようです。
ありがとうございます。
(なぜ「ありがとう」なのかは、前回お話ししましたのでそちらをお読みいただければと思います。)
ま、結論を先に言うと、イロハニトイロは宗教ですね(笑)
「宗教」って何かというと、
一般的な概念に逸れた考えを提唱し、一般的な価値観からこぼれ落ちた人たちを救済するためにあります。
具体的に言うと、
「病める人、苦しむ人、まさにあなた方こそが神から救われるべき存在であり幸福なんだ」
とキリスト教では言うわけですよね。
「南無阿弥陀仏と唱えれば、仏様はどんな人でもお救いなさいます。悪人こそ救われるべき存在だ。」
と仏教は言うわけですよね。
(もちろん同じ宗教でも宗派によって考えは異なります)
こういうのって一般的(“多くの人が考えている”という意味です)な価値観から逸れているわけです。
イロハニトイロって場所は一般的な支援の価値観を解体し、
再度「本当の支援とは何か」を自分たちで問い直し、
当事者の方々と対話をしながら、試行錯誤し、創り上げている場所ですから、
そういう意味では、イロハニトイロは宗教と同じと言えるわけですよね。
しかし、結論をここで終わらずに、「本当の宗教と何が違うのか」を少しここでお話させていただきたいのです。
それは、
「万物の真理を
神を用いて
語らない(一方的に与えない)」
ということでしょうか。
つまり、どういうことかというと
イロハニトイロというところは、
これまでの自分を苦しめてきた固定観念(価値観)を一旦崩し、
心のしがらみから解き放たれ、
新しく人生を再構築させる場所
ということです。
そしてその人生は、人それぞれ違うもの(オリジナルなもの)ですから、
決してこちらから与えることは出来ないし、絶対的な真理として示すことはできないんです。
対話しながら共に悩み考え寄り添うことしかできない
ということです。
そこが本当の宗教と大きく違うところでしょうか。
「念仏を唱えれば救われる」
ではなく、
「念仏を唱えたかったら唱えたらいいし、唱えたくなかったら唱えなくていい。あなたはどうしたいですか?」
ということを絶えず問われる場所なんです。
「あなたにとっての幸福とは何ですか?」
「あなたにとっての課題とは何ですか?」
「あなたにとっての仕事とは何ですか?」
「何のために働くのですか?」
「あなたはどうありたいのですか?」
この現実の社会の中で、
一方的な価値観を押し付けられ、
人間としての尊厳を奪われ、
自らもこんな自分をいつも否定し、
病気になってもまだ否定し続けている。
そんな生き方から解放され、
人間としての尊厳を取り戻し、
自らの幸福に向かって、
自ら選択し、行動し、努力し、
人生を再構築していく。
その力と勇気を育む場所です。
これが周囲から見て宗教というのであれば、
胸張って
「あなたがそう思うのであればイロハニトイロは宗教です」
と言っていいと思うんです。
これを読んでくださっているあなたは、
この宗教を理解したいと思いますか?
(きっと興味があるから読んでくださっていることだと思います。ありがとうございます。)
そんな興味を持ってくださった方々がイロハニトイロという場所と繋がってくださっている。
その方々との対話を通してさらにイロハニトイロは大きくなっていく。
そういう事業所でないと、私たちがやっていることが意味をなさないとおもうんです。
(批判されることが嫌ならみんなと同じようにすればいいわけなので)
これからも「イロハニトイロは宗教だ」と言われるくらいのことをし続けていきたいと思います。
ぜひお楽しみに。
イロハニトイロ所長
金村栄治